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山椒魚

井伏鱒二の他の作品は知らなくても、「山椒魚」は知っているという人は多いはずだ。なぜなら、学校の教科書にのっているからである。しかし、そこで読んだ山椒魚を大人になってからもう一度読むと、また一味違ったものになる。それが読書のおもしろいところでもある。

 この話は、1929年に「幽閉」という題名で発表されたそうだが、改作し、「山椒魚」となったそうだ。ぜひ、改作前の「幽閉」を読んでみたい。そしてさらに、1985年にラストの「ところで~いないんだ」まで、井伏鱒二は削除した。

だが、しかし、私は1985年以降に学校に入っているにも関わらず、山椒魚のラストは蛙のセリフで終わることを知っていた。今持っている二冊の全集は古いものなので、もちろん削除前の山椒魚である。そんな訳で、私は山椒魚のラストが削除されたことを全く知らずに生きていた。そして、この話は、蛙と山椒魚の友情のようなものが感じとれる話だと思っていた。

 だが、私の持っている全集の中の、河盛好蔵と対談している井伏鱒二は、山椒魚はチェーホフの「賭」というのを読んだ感動を書いたものですという。チェーホフの賭を読んだことのない私は、よくわからないのだけども、どうやら、銀行家二人が十五年幽閉する賭けをするそうだ。そして、絶望からデカダンの気持ちになったり、それから、あきらめたりして、十五年目に悟るという話だそうだ。
それで、井伏鱒二は最初悟るまでを書きたかった。しかし、悟りも絶望すらも書けなかったと語る。そこで、瞬間的にも、自分で感じなければ書けない、説明になってしまうと語った。
 
 何を読み違えていたのだろう。
この話は友情話で幕を閉じる話ではない。井伏鱒二は、あきらめ、絶望、そして悟る山椒魚を書きたかったのだ。そう思って読み返してみる。
十分山椒魚はあきらめ、デカダンな気持ちになり、絶望していた。
しかし、この蛙のセリフで終わる山椒魚は、このままではさらに山椒魚は絶望するしかない。だって、唯一の話相手である蛙が死んでしまう。こんなんで、山椒魚は悟れるのか?かなりかわいそうだ。

きっと井伏鱒二は、山椒魚は悟れないなら、悟れないなりに、嘆息が聞こえないように暮らしていくほうが良いと、それか、悟れる可能性を残したまま物語を閉じたほうがいいと、仕方なしにおもったのかもしれない。だから、ラストの部分を削除したのかもしれない。
本当は、悟るはずだった山椒魚。
そう思うとこの物語がいっそう悲しく美しく思えてならない。



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ぼちぼちと絵や変なものを作ったり、本読んであーだこーだと思ってます。takakoの作品集もあるので、リンクからどうぞ!

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