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羅生門

芥川龍之介といえば、一番有名なのはやはり羅生門だろうと思う。これも、高校の教科書などに載っているそうだ。

 この話は、生きるために蛇を干魚だと偽って売っていた女の死体の髪を、これまた生きるためにカツラとするべく引き抜く老婆の着物を、これまた生きるために追剥する下人の話である。

 下人の心境はこうである。最初の彼は、盗人になることを積極的に肯定する勇気がなかった。そして、死体から髪を引き抜く老婆の姿を目にしたとき、あらゆる悪に対する反感が生まれ、餓死を選ぶ心境になるほど、悪を憎んだ。しかし、老婆の言葉を聞き、餓死という言葉は意識の外に追い出され、下人は老婆の着物を盗ったのだ。

 老婆の言葉、それは下人にとって盗人になるべく正当な理由だった。盗人を積極的に肯定する勇気を与える言葉だった。
私は老婆の言葉から、食物連鎖を想像した。
自然界の生き物は、食物連鎖の上になりたっている。それは、生きるために行われていることである。もちろん人間もその一部に組み込まれていることは間違いない。

 しかし、私たち人間達は、道徳心がある。他の生き物にあるのかどうかはわからない。だが、人間には確実にある。善悪や理性をもち、それに縛られ、悩み、苦しみ、しかしそれに守られ、生きているのだ。法律があり、裁判をする生き物も人間だけである。
下人は盗人になることを悪だと知っているが、生きるためには盗みをしなくてはいけない。だが、生きるためとはいえど、悪い行いをしてもいいのだろうか。それは、きっと、誰しもその立場に置かれたら通る心境だと思う。人間の社会では、人のものを盗むのは悪行だ。

 では、自然界ではどうだろう? 
獣や昆虫達は、盗みは悪いことだと思っているか? 
思っていないだろう。生きるために必要なら、その行いをするしかない。生き物はたくさんの命の上に成り立っている。それを、悪だとか善だとか言わない。法律も裁判もない。食べたり、食べられたり、奪ったり、奪われたりの繰り返しである。それが、自然界。生きるか死ぬかである。

 下人は人間界のルールの上で今まで生きていた。それが、災いによって壊され、自然界に投げ出され、猿のような老婆の言葉で、下人の善悪は意識からなくなったのだ。以下老婆の言葉を一部引用。

「この女がした事が悪いとは思うていぬ。せねば、餓死するぢやて、仕方がなくした事であろ。されば、今又、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、餓死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの。ぢやて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
 
 下人、老婆、死体の女。誰を責める事ができるであろう。餓死するから仕方なくしたのだ。人間界では悪だとみんな言うだろう。いくら餓死するからといって、やって好いこと悪いことの区別をつけなきゃいけない。人間には理性がある。守らなければいけない秩序がある。これが崩壊すると、人間は勝手気ままに、己のことのみを考え生きていくだろう。力が支配し、争いが絶えない世界。すなわち自然界。生きるか死ぬかだ。
理性的な人間からすれば、盗人か餓死かの他に生きる方法はないの? と思うだろう。

 では、理性的で道徳心を持つ私達は、生きるために仕方なく、他の動植物を殺して食べているか? 生きるために仕方なく森林を伐採、ゴルフ場などを開拓しているのか? 生きるため仕方なく、海を汚し、空気を汚しているのか。
ほとんどのことは、生きることとはなんら関係のないことばかり。余興や趣味、金儲け、より良い生活を目指して、ただただ便利だからと、生き物を死に追いやっている。そして、そのことを悪いだなんて考えもしないのだ。

 人の物は盗ってはいけない。死体から髪を抜いてカツラにするなんてもってのほか。それは、ただただ悪だから。だけど、海や山や空気だって汚してしまっても、仕方がない。人間のために絶滅した動植物がどれくらいあるだろう。しかし、そんなことは関係ない。悪だなんて思わない。これが人間界だ。

 人間が人間として誇りを失わずに生きていくには、道徳、秩序を守り、人間界で生きるより他ない。その人間界が滅びてしまったのなら、人間は自然界の人間として、その種を守り抜くしかない。生きるか死ぬか。命をつなぐとは、そうたやすいものではないようだ。





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小説家は言葉を慎重に選んで小説を書くそうだ。なぜなら、漢字でもカタカナでもひらがなでも、そこに当てはまる言葉は一つしかないという。それを見極め、文章を綴っていくそうだ。なんだか、画家が色や線を選ぶのと似ていると思う。
 
 今日はこれまた、井伏鱒二の作品の中で有名な「鯉」という話について。
この話も、後に、飛込台から鯉を見つめるシーンや鯉を最後プールに描くシーンを書き加えたそうである。最初の鯉を読んだことはないが、やはり終わり方が違うのだろうと思う。

 井伏鱒二は親友の青木南八に多大な影響を受けたそうだ。それはこの作品からすごく伝わってくる。きっと、若くして亡くなった青木南八のために書いた話だと思う。

 なぜか、私はいくつか植物が出てくるところが気になった。
まず、最初に出てきた「無花果の葉」これは、鯉をどうしようか、殺してしまおうかと悩み、洗面器の中の鯉を無花果の葉で覆うのだ。なぜ、無花果の葉なのか? ほかの葉じゃだめだったのか? そこで調べた。すると、無花果の葉とは旧約聖書に書かれているアダムとイブが腰巻に使っていた葉とされていた。そして無花果の実は不老長寿の果物とあった。青木南八からもらった「鯉」という「私」にとって大切なものは、アダムとイブのように、無花果の葉で隠したかった。なるほど、その辺の落ち葉じゃあだめな訳だ。

 そして次に出てきた植物は、青木南八のためにお見舞いに持って行ったサボテンの鉢。そのサボテンには大小の花が二十四個咲いていた。なぜ、二十四個? 十でも二十でもいいじゃないか。気になったので調べてみたら、青木南八は二十四歳で亡くなったようだ。また、お見舞いに鉢を持っていくのは「根付く」ということからタブーになっている。そして、サボテンの花言葉は(種類はわからないが)、「秘めた熱意」である。そしてそれは、青木南八の棺の上に置かれるのである。

 この後、鯉を返してもらうため釣りにいくのだが、そこでまた植物、おいしそうな枇杷が登場する。早朝から夕方まで釣りをして、たくさんの枇杷を食べたとある。枇杷の花は一つも出てこないが、花言葉は、「温和」「治癒」「あなたに打ち明ける」であった。
それ以降、植物は、「プールの水面に木の葉が散った」とだけある。これは、よくある光景で別に気にならなかった。

 あとは、冒頭の「すでに幾十年前から私は一ぴきの鯉になやまされて来た」が大変気になった。じゃあ、これを書いている「私」は鯉をもらって十幾年後の「私」のようだ。そして、次に続く文章は「学生時代に友人青木南八(昨年死去)が~」とあるのだ。
「私」は青木南八が亡くなってから一年後に書いているということになる。
青木南八は、「私」が愛人宅の池に鯉を放ってから六年目に亡くなる。鯉を愛人宅に放ったのは、鯉をもらった年の冬。
ということは、冒頭の次に続く文章にある(昨年死去)によると、これを書いているのは鯉をもらってから七年目の私ということになる。

 では、冒頭の「すでに幾十年前から私は一ぴきの鯉になやまされて来た」とは? 鯉をもらって十幾年も経っていない。では、この物語が終わってから、さらに何年後かの「私」が「なやまされて来た」と書いているのだろうか? でも、次の文の「私」は青木南八(昨年死去)と鯉をもらってから七年目の「私」になっているのだ。幾十年としたのは、デフォルメであろうか? では、あえてデフォルメした理由は何なのだろう。そして、「すでに」という言葉も妙に引っかかる。

 そして最後に、青木南八にもらう「鯉」であるが、これは一体何なのか? 
「私」は鯉を殺さないことを誓ったり、やりばに困ると殺してしまおうかと考えたりする。青木南八が亡くなると、すぐに鯉を釣り、早稲田のプールに放す。鯉がプールを誇らしげに泳ぐ光景に感動し、涙を流す。そして、最後にプールに張った氷の上の薄雪に、大きい鯉を描く。青木南八から贈られた、すでに幾十年も悩んでいて、感動させられ、そして、最後には氷の下のあの鯉を、でっかく氷の上に描く。そして満足して終わる。

「鯉」とは何であろう。

それは、井伏鱒二が小説を書くということに等しいのではないか。井伏鱒二が小説を書くのは、氷の上ででっかい鯉を描く行為そのものなのではないかと思う。そして、彼にとって、青木南八から贈られた「鯉」とはきっと、彼が人生で書きたいこと、書かなきゃいけないこと、なんじゃないかなと思った。
 
 

 
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山椒魚

井伏鱒二の他の作品は知らなくても、「山椒魚」は知っているという人は多いはずだ。なぜなら、学校の教科書にのっているからである。しかし、そこで読んだ山椒魚を大人になってからもう一度読むと、また一味違ったものになる。それが読書のおもしろいところでもある。

 この話は、1929年に「幽閉」という題名で発表されたそうだが、改作し、「山椒魚」となったそうだ。ぜひ、改作前の「幽閉」を読んでみたい。そしてさらに、1985年にラストの「ところで~いないんだ」まで、井伏鱒二は削除した。

だが、しかし、私は1985年以降に学校に入っているにも関わらず、山椒魚のラストは蛙のセリフで終わることを知っていた。今持っている二冊の全集は古いものなので、もちろん削除前の山椒魚である。そんな訳で、私は山椒魚のラストが削除されたことを全く知らずに生きていた。そして、この話は、蛙と山椒魚の友情のようなものが感じとれる話だと思っていた。

 だが、私の持っている全集の中の、河盛好蔵と対談している井伏鱒二は、山椒魚はチェーホフの「賭」というのを読んだ感動を書いたものですという。チェーホフの賭を読んだことのない私は、よくわからないのだけども、どうやら、銀行家二人が十五年幽閉する賭けをするそうだ。そして、絶望からデカダンの気持ちになったり、それから、あきらめたりして、十五年目に悟るという話だそうだ。
それで、井伏鱒二は最初悟るまでを書きたかった。しかし、悟りも絶望すらも書けなかったと語る。そこで、瞬間的にも、自分で感じなければ書けない、説明になってしまうと語った。
 
 何を読み違えていたのだろう。
この話は友情話で幕を閉じる話ではない。井伏鱒二は、あきらめ、絶望、そして悟る山椒魚を書きたかったのだ。そう思って読み返してみる。
十分山椒魚はあきらめ、デカダンな気持ちになり、絶望していた。
しかし、この蛙のセリフで終わる山椒魚は、このままではさらに山椒魚は絶望するしかない。だって、唯一の話相手である蛙が死んでしまう。こんなんで、山椒魚は悟れるのか?かなりかわいそうだ。

きっと井伏鱒二は、山椒魚は悟れないなら、悟れないなりに、嘆息が聞こえないように暮らしていくほうが良いと、それか、悟れる可能性を残したまま物語を閉じたほうがいいと、仕方なしにおもったのかもしれない。だから、ラストの部分を削除したのかもしれない。
本当は、悟るはずだった山椒魚。
そう思うとこの物語がいっそう悲しく美しく思えてならない。



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はじめまして。絵や読書が好きなtakakoといいます。
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